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久々の富士門流談義

形木本尊
画像は私蔵の所謂「称徳本尊」と呼ばれるものの御形木御本尊である。

表装表具を含めると1畳を超える大きさで、ある富士門流寺院の御風入会にて、所謂「萬年救護大本尊」の御形木と同寺所蔵の称徳本尊を並べて写真を撮らせてもらったことがあるが、ほぼ同じ大きさである。

但し、私蔵のそれは、これまで富士門流寺院で拝観したものと異なり、下部に京都要法寺二十九世日慈の因縁書が形木で刷り付け加えられている。

それによれば、称徳本尊は師資相伝の本尊であり、広宣流布祈願の為に宝暦十三年十一月に模写彫刻(版木の作成と思われる)されたとある。

そして時は下り、本門宗瀬島日済により開眼され、出雲妙蓮寺の檀信徒に授与されている事が、左右の脇書からわかる。

出雲妙蓮寺は戦後日蓮宗に残存し、日蓮宗新聞からは、僧侶の法衣は完全に日蓮宗化していると見える。

戦後、約五十箇寺が本山と共に日蓮宗を離脱したが、三十箇寺以上は日蓮宗に残存した。
「島根尊門会」と称する旧要法寺末だが、現実は厳しく月日が経つにつれ旧日蓮宗と変わらない存在へとなり、今では加行満行者の祈祷や、九識霊断法を用いる寺院住職もいる。

興統法縁と云えども現状は多くが厳しい。



宗教に正邪無し

宗教には正邪は無い。
あえていえば、全てが「邪」といえるだろう。

宗教で感得する覚りや功徳は、芸術・芸能でも学問・スポーツでも体感できる。
芸術・芸能も学問・スポーツも苦手な人は、宗教で体感するしかないのかもしれない。

もちろん、覚りや功徳・利益、現象面での不可思議な出来事は、全ての宗教で体感が可能である。
禅をくんでも、火炎や偶像を崇拝しても、掛け軸を拝んでも、それら以外の祈りでも。

会合などで得る歓喜も、教会で讃美歌を歌うのと同じ、特別なことではなくあらゆる場で経験できるものである。

冒頭、全てが「邪」といえるとしたのは、宗教には紛争・事件の火種が内在しているからである。
たまたま自分が関わった宗教で、本気になり何らかの感得・体感によって、その宗教だけが唯一正しいと思い込み、他人に勧めていく行くといった行動に出ていく。
まことに迷惑な話である。

このような行為が無くなる事が世界平和への一歩となろう。

月がかわり、結論のみのつぶやきとなったが、字数の関係でTwitterではなくblogに記した。





流罪死罪

再掲するが「寺泊御書」には、

仏陀記して云く「後の五百歳に法華経の行者有りて諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦石・流罪死罪せられん」等云云。日蓮無くば釈迦・多宝・十方の諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり。

とある。
日蓮が龍口法難をもっていっているのか、佐渡流罪をもっていっているのか判然としないが、日蓮は「死罪」にはなっていない。身延で9年間も隠棲している。
つまり日蓮の言はブーメランとなって帰って来、『釈迦・多宝・十方の諸仏の未来記は当に大妄語』となったのである。

それに反して、イエスは大衆の前で十字架にかかり、まさに死罪を現じて見せた。
これはキリスト教者でない研究者が文献考証した結果、イエスの死罪は事実であると結論しているからほぼ間違いないだろう。
もちろん、イエスの死罪はローマ帝国の法の裁きによって、その宗教的信念と行動を断罪されたものである。

イエスは社会の底辺層に目を向け、当時のローマ政治を強烈に批判。
加えて宗教的信念から、商売人を神殿から追い出すなどの行為があったという。
それでも病気の治癒など、当時としては「奇跡」と思われる現象を繰り返し、多くの信奉者を増やしたようである。

キリスト教は中世には西洋文化・芸術に影響をあたえ、近現代ではイエスの疾病平癒の精神はマザーテレサなどに受け継がれた。

恐らくは所謂「大乗仏教経典」の成立にも影響をあたえたと思われる。
特に法華経には阿弥陀如来の住む安楽世界が、聖母マリアを思わせる観世音菩薩が本門と呼ばれる後半部分に説かれる。

よって法華至上主義の日蓮の行動が、イエスのそれとかぶるわけである。
創価学会の池田大作が目をつけるのも、ある意味納得がいく。





必要な人がいれば差し上げます

先にTwitterでふれましたが、かなり状態の悪いもので恐縮ですが、興風談所「日興上人全集」を1冊必要な方に提供したいと思います。

新しいものは、興風談所に問い合わせればまだ在庫があると思いますので、有償でも新品をご希望の方は問い合わせてみてください。

私が提供できるものの状態は以下の通りです。

1、箱無し
2、汚れ、鉛筆による書き込み、マーカーによる線引きなど有り。
3、正誤表無し
4、写真画像部分は特に問題なし。

日興上人全集は、御書全集は問題外で、富士宗学要集や歴代法主全書第1巻、日蓮宗宗学全書第2巻などにも掲載されなかった文献掲載や、真偽考証、誤字・誤訳の訂正など、日興上人研究には必携の一書といえるでしょう。
特に巻末には現存文献の写真画像が多数収録されているので、真偽の課題が残っているものを自分の目で確かめることができます。

現存文書を「正篇」、写本文書を「続篇」に分けて掲載しています。

以上のような状態ですが、送料のみ着払いでご負担いただければ提供させていただきます。
ご希望の方は以下よりご連絡ください。

管理者への連絡

本資料の受取手様が決まりましたのでご連絡します。1冊しかなく申し訳ありませんがご理解の程お願い申し上げます。
柳沢宏道師の「石山本尊の研究 増補版」及び「造佛論議・読誦論議」、冨士教学研究会会報第2号は在庫がありますので、ご希望の方はご相談ください。






日蓮と創価学会の布教

日蓮は「寺泊御書」に『大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃経等の如し。』と、一期の弘通の中で、あるいは真言を批判したり、肯定したりもした。

寺泊御書の一説は、大日経を一定評価したものと解せられる。

事実、日蓮は「立正安国論」をもって、権力者による武力を用いた広宣流布を訴え、涅槃経の折伏を実践し、それが受け入れられないと、弟子をもって内部告発を実践し、厳しい指摘をもって相手を論破するといった、言葉による折伏、つまり大日経に示される齟齬による折伏を行ったのである。

ある時は権力者に直訴し、またある時は弟子たちを使ってクーデターを起こしていった。
これらは他力本願的な側面であることも否定できない。

日蓮が目指したものは、現在の創価学会の云う「一対一の対話」や世界平和などではなかった。

キリスト教でいうところの「リバイバル」を常に期待したのが日蓮だったのである。
キリスト教ではお隣の韓国で、リバイバルが起こり極端に言えば三歩あるけば教会があるといった現実がある。

宗教家日蓮であることを思えば、リバイバルが起こることに期待するのはある意味当然かもしれない。
「一対一の対話」などというチマチマした考えは日蓮のそれとは大きく異なる布教だと感じる。





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